単なる暗闇ではなく全く別の世界への誘いだった「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」

 

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク、すごかった。絶対行ったほうがいいよ」

 

ダイアログ・イン・ザ・ダークに参加したという、「新刊JP」編集長・カナイさんが熱く語ってくれました。そういえば、最近よく聞くし気になっているけど、行ったことが無いという人が多いかも?(私も今週はじめて行く予定です)

 

そこで、今回は「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」とはどんな体験だったのか…?

レポート記事を寄稿してもらいました!

  

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「暗闇の中での対話」という意味の「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」。

 

ドイツ発のワークショップで、公式では「ソーシャルエンタテインメント」と呼ばれている。

 

具体的に言えば、アトラクションというべきか、エクスペリエンスというべきか、でも単なるアトラクションとは到底言い切れないし、これは経験という言葉以上の何かでもある。一言に集約することは難しい。

 

その内容は、純度100%の暗闇(つまり何も見えない)の中で、同じチームの人たちと一緒に冒険をするというものだ。

 

「冒険」とは私の実感によるものだ。後で詳しく説明をするが、視覚が使えないそこは、まるっきり違う世界が広がっているような感覚に溺れる。そこで私たちは幼児のように新しい遊びを次々と覚え、人間関係を構成していくのである。

 

私はウェブページから参加予約をし、千駄ヶ谷駅から常設会場へと向かった。

 

 

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チームは8人一組。私は一人で参加し、カップル2組に男性2人組、そして私と同じように一人で参加している女性の8人組だった。

 

スタッフの方に簡単な説明を受けたあと、「アテンド」という視覚障がいを持った案内役と合流し、自己紹介をし合う。彼女がいなければ、暗闇の中の私たちは孤独のあまりパニックになっていただろう。それくらい心強い存在なのだ。

 

自己紹介ではニックネームを教え合った。もちろんその場で全員のニックネームを覚えられるわけがない。しかし、いずれ全員のニックネームを覚えるようになる。

 

また、暗闇に入る前に白杖を渡される。この白杖と手の甲の触覚は暗闇の中で行動する上で一つの生命線となる。白杖は社会で生きていくために必要不可欠なものであり、8人という小さなチームであっても白杖があるからこそいさかいなくやっていけたようなものだと思う。

 

暗闇の中では遊んだり、探したり、話したりする。暗闇の空間を共有した仲間たちとの会話は、とてもフラットで、年齢や肩書きは関係ない。私たちは、その場においてはみな訓練生の同期のようなものだ。この部分のレポートについては、体験した方々のブログが詳しいので、そちらに譲るとして、ここでは気づいたことをいくつか書いていきたい。

 

声は進むべき道を示してくれるものである

 

暗闇の中で歩いていても、目印というものはない。当たり前だ、目が使えないのだから。では何に頼るかというと、声である。最初は、「私の声が聞こえる方へ来てください」というアテンドさんの声が頼りである。

 

こうした呼びかけがどこから出ているのかは、意外と分かるものだ。途中、車座になりキャッチボールを行ったのだが、声を上げればちゃんとボールは来るし、声がした方へボールを転がせば、その人がキャッチしてくれるのである。不思議に思ったが、それだけ視覚以外の感覚を私は信じていないということなのだろう。

 

方向だけではない。声の大きさ小ささで距離もはかれる。もちろん寸分狂わずというわけにはいかないが、遠いか近いかというくらいならば把握できる。近ければ近いほど、安心感がわいてくるというのも事実だ。

 

声は進むべき道を示してくれる。それは視覚よりも強力だ。なるほど、よく考えてみれば、人を動かせるのは視覚よりも聴覚に頼るメディアである。演説にせよ、音楽にせよ、リズムにせよ、朗読にせよ、熱狂を生み出すものの多くは声だ。視覚に頼るメディアはもはや時代遅れなのかもしれない…というのは書いている私でも言い過ぎのように思うが、実際のところ聴覚や声の重要性について再定義されるだろう。

 

 脳は思っている以上に頑固である

 

途中、プチパニックに陥りそうになった。頭が勝手に焦り始めたのである。私たちは目を閉じればいつでも暗闇を経験できるわけだが、それは目を開ければ世界が見えるという前提に立っている。しかし、目を開いてもそこは真っ暗な空間である。

 

暗闇の中を練り歩き、少しずつ行動の仕方を覚えていく中で、頭は「いつもと様子が違うぞ?」と気づきはじめる。そりゃそうだ、目を開いても情報が入ってこないのだから。目を瞑り、そして開く。同じ暗闇だ。そして、「何も見えないじゃないか!これはなんなんだ!?」と私の頭が驚いているのである。

 

そこで、急に暗闇の世界に「閉じ込められた」という感覚に陥る。しかし、どうもがいても、何をしても暗闇である。同じ空間にあるはずの世界は、私の中でガラガラと崩れ去り、再構築せねばいけなくなった。暗闇の中の世界の感じ方が違う。同じ世界のはずなのに。

 

終わった後に感想を言い合う時間で、同じチームの人たちは「頭がすごく疲れた」「妄想が見えたりした」と言っていた。私も妄想が見えた。暗闇で何も見えないはずなのに、天井の縁が見えたり、壁の模様が見えたりといったものである。そこにあるはずのものを頭の中で補完しているのだろう。奇妙な体験である。あるかどうかはもちろん最後まで分からない。

 

同じ空間に構築された別の世界をいかにつなげるか

 

視覚がある世界と視覚がない世界はまったく別の世界である。同じ空間にいたとしても、構築の仕方が違えば世界は違う。つまり、しょせん世界というのは私の頭が作り出したものであり、人それぞれ、同じ空間で別の世界を作り上げているのである。

 

視覚を前提した世界で生き続けてきた私は、視覚を失ってはじめて世界が崩れ落ち、そして新たな世界を構築しなければいけなくなった。遊ぶ、語る、触る、教える、教わる、座る、寝転がる、飲む、食べる、聞く、話す…。

 

「見ている」という感覚もなければ、「見られている」という感覚もなくなる。なぜなら、自分以外の人たちも同じ暗闇にいると私が勝手に思っているからである。

 

バリアフリーというのは、こうした異なる世界を持った人たちが同じ空間で共生できるための装置だ。だいたいの場合、障がい者支援の文脈で語られることが多く、「健常者レベルに」という意識が強くなるのだが、実際はそう考えてはいけないのだろう。

 

前提は一人ひとりが生きる世界は違うということであり、その別々の世界をつなぐインフラがバリアフリーという概念なのだ。

 

今回私は視覚を閉ざされた世界を体験してきたわけだが、聴覚を失った人の世界も存在するし、半身が使えない人の世界も存在する。これらは障がいとして一緒くたにカテゴライズされることもあるが、それぞれまったく違う世界が存在している。もちろん健常者も世界の一つである。そして、世界に優劣は存在しない。

 

私たちがバリアフリーに考えるべきことは、空間をどのようにデザインすればみなが同じように生きることができるかということだろう。そのときに健常者を前提としたデザインではなく、視覚よりも聴覚や触覚を優位にするような装置を入れるなどといった工夫が求められるはずだ。

 

 

日本に上陸してからしばらく経つが、じわじわとその知名度が高まっていて、企業の研修や学校の学習などでも利用されているそうだ。

 

見えないことで、見えてくることがあるというのは実に正しく、そして稀有な経験である。視覚がなくなった世界はどうだったか? 不便だったと言われれば、「イエスであり、ノーでもある」という回答が正しい。今の自分にとってはイエスだが、その世界を受け入れることができれば、ノーということになる。

 

偉そうに私の体験を書き殴ってきたが、これはあくまで私見なので、参考程度に考えておいてほしい。すべての人がそれぞれ違うことを感じるはずである。そしてその感覚を大事にすべきなのだ。

 

そして、何よりも一度実際に体験してほしい。私は一人で参加したので、そこでまずチームの中に入り、関係を築き上げるところから始めたが、心細いならば複数人数でも参加できる。暗闇の中では助け合いが重要なので、必然的にチームワークが磨かれるだろう。

 

暗闇の中でジャズを聴きながら飲んだビンのジンジャーエールは辛くて美味しかったなあ。

 

【この記事のライター】

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新刊JP編集部・カナイモトキ
1984年生まれの編集者、ライター。「新刊JP」の編集長。JR中央線沿いに生息しているサウスパーク愛好家。興味のあることはエスノメソドロジー、下位文化理論、メモリースタディーズ、慣習法。
最近ニューヨークに行って、書店を見学してきたそうです⇒「トートバッグに本を詰め込んで。ニューヨークの“伝説の書店”をレポート」 
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担当者 佐伯